日本再生医療学会雑誌:「スタンフォード大学における再生医療研究」
2007年5月1日発行の日本再生医療学会雑誌「再生医療」5月号に掲載されたコラムです。ちなみに、直接研究費として消費される予算もあれば、大学の基金に組み込まれ、その運用益が実際の研究費となるものもあるので、金額の解釈には注意が必要。スタンフォード大学全体の年間予算が$3.2 billionに対して、基金の総額が$14.1 billion(リンク)。アメリカの研究費のソースの多様性については、過去のエントリー「ビルゲイツ+ウォーレンバフェットはモノポリーを握るのか?」もご参照ください。以下、本文。
スタンフォード大学における再生医療研究
スタンフォード大学は長年にわたり幹細胞研究・再生医療研究の先端を走ってきたが、最近2つのキーワードによって次のステージに入ったと感じられる。本稿ではその2つのキーワード「ヒトES細胞」と「Cancer Stem Cell」を中心にスタンフォード大学とそれをとりまく再生医療研究の現状を概説したい。
2007年2月、いよいよカリフォルニア州独自の幹細胞研究推進グラントが本格的に執行開始される。このプロジェクトは、2004年11月にアメリカ大統領選挙と同時に行われた住民投票で可決され、California Institute for Regenerative Medicine (CIRM)(リンク)により運営される。今後10年間で30億ドル(約3600億円)がヒトES細胞を中心とした再生医療研究に投資され、その内訳は基礎研究と前臨床研究開発に30%づつ、臨床治験に20%、各種フェローシップとNIH予算から独立した研究施設の整備に10%づつが割り振られる予定だ。この内訳からも見て取れるように、本プロジェクトはヒトES細胞を用いた基礎研究にとどまらず、再生医療として臨床応用の実現を明確に意識しており、カリフォルニア州を再生医療関連産業の拠点とすることによって州および州民に利益をもたらすことを最終目標としている(PDFへのリンク)。予算の交付先は当然カリフォルニア州内に研究拠点を置く機関に限られ、また、予算の大部分は税金ではなく債券の発行によって賄われる点が興味深い。
カリフォルニア州がこれだけ強いイニシアチブをとる背景には、まずカリフォルニア州の経済力がある。カリフォルニア州は面積で日本よりも大きく、経済規模は2005年のGDPでアメリカ内で1位、カナダ全体よりも大きく、イタリアと同等である。この経済力が、州が強い権限をもつアメリカの連邦制と相まってこのダイナミックな政策を可能にしている。そして、近年アメリカの産業で成長を続けているのはヘルスケア・セクターのみであるという事実がある。サンフランシスコ国際空港周辺にはジェネンティック社をはじめとするいわゆる第二世代創薬ベンチャー企業が集積している。これらの企業は抗体医療をコアに今やベンチャーから製薬企業へと成長し、関連産業と雇用を周囲に呼び込みオフィスや工場の供給が間に合わないほど活況を呈している(他にサンディエゴもバイオ産業の集積地として有名)。カリフォルニア州は「その次」として再生医療に的を絞ったわけだ。
今回執行されるのはすべてヒトES細胞に関連したテーマで、既にヒトES細胞研究の経験がある施設を対象としたComprehensive Research Grant(25件、4年間、総額8千万ドル)および新規にヒトES細胞研究を開始する施設を対象としたSEED Grant(30件、2年間、総額2千4百万ドル)(リンク)。前者に対して23の機関から70件の、後者に対して36の機関から232件の応募があり(リンク)審査が行われている。スタンフォード大学もこの競争を勝ち抜く必要があり、2006年秋は予備実験に追われた。
ヒトES細胞研究に関して、ブッシュ政権は次の2点に対して連邦予算の直接的・間接的使用を禁じている(リンク1、リンク2)。1.新規のヒトES細胞株の樹立の禁止(すなわち受精卵の破壊)、2.登録されていない細胞株を用いた研究。この第2項による制約は厳しく、例えばNIHグラントで購入した遠心機のある実験施設で、非登録ヒトES細胞を用いた実験は行えない。そのためCIRMグラントには「NIH予算から独立した研究施設の整備」という大きな予算枠がある。一方、登録済みヒトES細胞を用いたプロジェクトに対し連邦予算の制限はない。実際に、NIHグラントにも多数の選択肢がある(リンク)。しかしイラク戦争の影響でNIHグラントの総額が大きく減少している今日、CIRMプロジェクトの価値は相対的に増すばかりで、ヒトES細胞研究にもカリフォルニア州にも大きなアドヴァンテージをもたらすであろう。
第二のトピックはCancer Stem Cellである。近年、白血病のみならず乳癌などの固形腫瘍でも、幹細胞特性すなわち自己複製能と多分化能を併せ持つCancer Stem Cellの存在が示され、癌の発生機序に組織幹細胞が深く関与していることが明らかとなってきた。このインパクトは大きく、幹細胞研究と癌研究が融合を始めている。幹細胞を用いた再生医療では常に発癌を意識しなければならないし、逆に癌特異的治療の開発には正常の幹細胞についてより理解を深める必要ある。
この領域に関してスタンフォード大学では、Institute for Stem Cell Biology and Regenerative Medicine(リンク)とComprehensive Cancer Center(リンク)という2つのプログラムが進行中だが、2006年秋、新たにLudwig Center for Cancer Stem Cell Research and Medicineの開設がアナウンスされた(リンク)。これはVirginia and D.K. Ludwig Fundというプライベートな基金が(総額)1億2千万ドルの資金をアメリカの6つの施設に提供し(リンク)、癌研究を一気に加速させようという壮大なプロジェクトの一環である。Dana-Farber/HMSは新しい創薬の可能性を、Johns Hopkinsは癌の遺伝子レベルでの解明を、Memorial Sloan-Ketteringは革新的な免疫学的治療法の確立を、MITは転移のメカニズムの解明を、University of Cicagoはアイソトープ標識したホルモンなどを用いた癌特異的治療法を、そしてスタンフォード大学はすべての癌についてCancer Stem Cellを純化することを目指す。はたしてすべての種類の癌において、Cancer Stem Cellが関与しているのかどうかはまだわからない。しかしCancer Stem Cellというコンセプトであらゆる癌を見つめることにより、発癌のメカニズムや治療法、そして早期診断法にあらたな知見がもたらされるであろう。
スタンフォード大学にはもうひとつ、Bio-X(リンク)というユニークなプログラムがあり、幹細胞の利用にこだわらないより広い再生医療の探求が一つの柱となっている。Bio-Xは学部の壁が取り払われたプログラムで、医学、生物学、バイオエンジニアリング、情報工学まで各方面から研究者が集まり、その多くは文字通り壁を取り払ったオープンラボラトリーに机を並べている。整形外科医の隣にはナノテクノロジーの工学博士が座っているという感じで、アイデアの掛け算を行っている。
本稿の執筆依頼を受けて一番困ったのが、スタンフォード大学における再生医療研究を象徴する建物がどこにも無いことだ。写真を豊富にというリクエストにお応えするのが難しい。Institute for Stem Cell Biology and Regenerative MedicineもLudwig Center for Cancer Stem Cell Research and Medicineも存在するのは組織だけだ。そのネットワークを通じて、あっという間に共同研究が組成される。大切なのは独自なアイデアであり、その解明のためにベストの人材でチームを組む。そんなダイナミズムがこれからの10年、「ヒトES細胞」と「Cancer Stem Cell」にフォーカスするわけである。
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原稿入稿後、CIRMグラントの選考結果が発表されました。