技術は科学を生み、科学は技術を生む

自然科学の基本を、連続性、新規性、再現性とするならば、研究の実践は新しい登山ルートを切り開く行為に似ている。

目標とする頂(コンセプト)を決め、既存の道を起点に(連続性)、新しいルートを切り開いて(新規性)実際に頂上に立ち、ルートを公表する(再現性)。未踏峰の場合もあるだろうし、より早く頂上に達する新規ルートの場合もあるだろう。実際に道を切り開きながら登る作業は極めて泥臭く、汗臭い。未踏の頂上に立って、全体を見渡したときに、初めて「ロマンティック」な気分になるのである。

5年前に登れなかった頂に今年登ることを可能にする要素は2ある。1つは、周りの山に登って様子が分かること、2つ目は新しい技術の登場である。新しい技術(=応用・工学)は新しい科学を生み、新しい科学(=原理)は新しい技術を生む。科学の進歩の歴史はこの繰り返しであり(ヒトゲノム・プロジェクトですらその1例でしかない)、実際に斜面にとりついている者はそれを身を以て知っている。

だから、「科学者に衝撃を与えた「ロマンティックでない」グーグル」と題された梅田さんのエッセイに違和感を感じるのは当然であろう。

我々科学者の「ロマンティックな研究態度」が脅(おびや)かされているんだ、いやもう敗れてしまったのではないか。

<中略>

お前たち、ロマンティックな研究をいくらやっていても「グーグル的なもの」に負けるぞ、時代はもう変わったんじゃないのか。茂木は若い研究者・学生たちをこうアジった。「ロマンティックな研究態度」とは、物事の原理を理論的に美しく解明したいと考える立場のことである。

グーグル登場の意味を主にビジネス面からずっと見つめてきた私にとって、最先端をいく第一線の科学者たちが、こういう観点からグーグルに衝撃を受けているという事実が、逆にとても新鮮だった。

シリコンバレーからの手紙127:「科学者に衝撃を与えた「ロマンティックでない」グーグル」

もし、聴衆が若い研究者・学生だとすると、これから新しいルートを切り開こうという意志を持って麓に集まってきたわけだ。その時、もし茂木健一郎氏が一人称として「我々科学者」を使う、すなわち実際に斜面に取り付いている者の一人ならば、「グーグル的なもの」を新しく手にしたことによって、私は5年前には登れなかった、こんな新しい頂に挑戦することができた、そしてその頂上からの眺めは、こんなに素晴らしかった、と言うことを語り聞かせるべきなのではないか。

実際に斜面に取り付いている者にとって、「グーグル的なもの」はよりロマンティックな研究を可能にする歓迎すべきものであり、「負ける」ものでは決してないはずだ。その矛盾は気づかれている。

「科学の現場を作る人」という印象を茂木健一郎から受ける事はなかった。

それが悪いというのではない。EvangelistにはEvangelistとしての役割がある。しかしEvangelistがProphetを騙るのは、どんな宗派においても最高の背信行為であることは変わりないのだ。素人の目には茂木健一郎はそのように映ってならない。

404 Blog Not Found:書評 - フューチャリスト宣言

そして、その矛盾に気づかないまま、そして、科学のための「研究」と技術のための「研究」を混同したまま、「最先端をいく第一線の科学者たちが、こういう観点からグーグルに衝撃を受けているという事実が、逆にとても新鮮だった。」と梅田さんが事実として認識してしまうのを回避するためには、実際に斜面に取り付いている者が、未踏峰からの眺めがいかにロマンティックかを、麓まで降りてもっと語りかける必要がある。

MIT

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May 10, 2007