身の程を「知る」と「知れ」
身の程を知る vs. 身の程を疑う
ではなく、
身の程を知る vs. 身の程を知らされる
では、ないだろうか。
君は人に教えてもらった身の程に満足して、人に教えてもらった人生を選ぶのか?
そうして身の程に引き蘢るならそれもいいだろう。身の程を疑うのは、いつの時代においても苦痛なのだから。
身の程を疑うことなく、身の程を「知る」ことはできない。しかし「知らされる」ことはできる。そして、社会を営む動物であるが故、望むと望まざると、「知らされる」ことは多々あるであろう。相手が「知れ」と言っていないときに、相手を見て己の身の程を「知る」ことができるのは、身の程を疑っている者だけだ。
すなわち、身の程を「知れ」といわれて、初めて身の程を「知る」のかどうか、そこが問題だ。
私も「日本人よ」というワーディングで何かひとことと三秒考えたのち「日本人よ、身の程を知れ」とご提言申し上げる。
「身の程を知る」とか「分際をわきまえる」とか「身の丈にあった望みを持つ」という謙抑の美徳はすでに忘れ去られて久しい。